Archive for the ‘もろもろ’ Category

ちゅういしながらすすめ

火曜日, 7月 2nd, 2013

ちょっとあるいたら、すこししんせんなくうきをすうことができて、

いままでむりに、なんとかなるさ、とおもっていたことを、

しぜんと

なんとかなるかな、とおもえるような、そんなじかんがあった。

 

へんかんそふとをあっぷでーとちゅうなので、ぜんぶひらがな。

あら、とおもったけど、たまにはこんなことがあってもいいかなとおもいました。

 

でも、ちゅういはしつづけよう。

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もっているもの

土曜日, 5月 4th, 2013

五月。連休。
ずっとこの期間を頼みにしていたのに、意外と予定が進まない。
割り込んでくるものが多いこと多いこと。
仕方ないのでひとつずつこなす。
とは言え、ずっと放ってあった作品サイトに少し手を入れることは出来た。

さて、あの空虚感を受け取ってしまってからもう半年が経とうとしている。
引っ越さなくてはならない可能性があるのだが、いつ引っ越さなくてはならないのかはいまだ未定だ。
いっそのこと、全部捨てていきたいな。なんて現実逃避する時間もたっぷりある。
そのせいで、この住居に対して捨て鉢になっていたことに気付いた。
最後の日まで、大切に暮らそう。
例えあとで壊されるにしても、壊れたところは直して、汚れたところはきれいにしておこう。

そんなことに今さら気付いた。

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生き物に対して捨て鉢になってないことだけが救い。
そこまで気持ちが荒れてるわけじゃない。

ルーティン

日曜日, 12月 30th, 2012

また今年も、今年が終わる。

また今年も、色々なことがあった。だから来年もいろんなことがあるんだろう。

慣れないことが起こることに、ある意味では、慣れたんだと思う。

作者と題名がわからないのでもどかしいのだが、何年も前に、母が聴いていた朗読CDの小説の一節で忘れられないものがある。大まかな内容はこんな感じ。主人公「○子」は、たしか針仕事をしながら考えていた。

○子は、自分の人生は波瀾万丈だったと思っていた。
でもいまになってみれば、平凡な人生だったのではないか、と思えるのだ。

きっと有名な小説の一節だ。朗読は名女優によるもので、その声と語り口は心にしみるものだった。小説の中での意味としてはまあ、過ぎてしまえば、と言うことだと思うのだけど、通りすがりにその部分だけを聴いた私にはもう少し重い印象が残った。

この朗読を聴いている母と、重なった部分はあったと思う。
自分と重ねた部分もあったと思う。
どの辺の人まで、自分の過去を「平凡」と振り返ることが出来るのかな、そのラインはあるのかな、とも思う。
そのラインは、その人が自分で引くんだという確信は、ある。他者による評価はここでは無関係だ。

だから、元アメリカ大統領が「平凡だった」と人生を振り返る可能性も、ある。そんな客観性に欠ける人物だったら大統領にはなれなかったはずなので、その可能性は、本当はない。と思うかも知れないけど、それは○子が波瀾万丈な過去を平凡と振り返るのと同じかも知れないので、やっぱり可能性は、ある。

閑話休題。

こんなことを考えるのは明らかに、自分が「半分を過ぎた」感覚があるからだ。
「過ぎた」というと悲しく聞こえるなら、「経た」としてもいい。この、とても複雑で豊かな感覚は、より多くの時間を経たからこそ感じられるものだと思う。

だとすれば、出来るだけ長生きして、もっと複雑な感覚を得てみたいとも思う。
そうやって、先のことを考えると、とたんに若者のように不安な気持ちにもなる。

これから起こることに対する、期待と怖れ。
今そこにあるものごとに対応しなくてはいけない、楽しさと疲れ。
出来れば、平凡だったと振り返りたい。
つまり、波瀾万丈を自覚する生活を送り、それを「平凡だった」と振り返れるのが 理想?

今までこの小説のこの一節を何度も思い返したけど、そんな考えに至ったことはなかった。
なんだかつまらない結論が出てきてがっかりなのはなぜかというと、結局小説は「作品」で、その中の一節は豊かで全体の中で大切な部分なのだけど、そこだけ切り取っておいてみたらどこにでもあるものになる、と言うことを確認した形になっただけだったから。または、悲しいけどまたもや私の展開の仕方が貧弱だから。

きっと私は「あとちょっとだったんだけどなあ」と、人生を振り返るのだ、と言う確信と共に、今日やるべきことはひとつ。

掃除。

露出アンダーでこわいけど、これはフランス・ナントの名物リゴレットというキャンディ。ものすごくおいしい。

判で押したような

日曜日, 8月 12th, 2012

 

iPhone のカメラ、と言うか、レンズのついたものが得意な、このような、彩度の高い被写体。

絵を描くとしても、これは描きやすい色。鮮やかさを出すのがラクなのだ。

これは、叔母がくれた、叔母と叔父が育てた野菜。採りたてシャキシャキで。(ごちそうさまでした)
もらったときの、鮮やかな様子に感激し思わず撮影してみたが、何ともステレオタイプでビックリ。
とは言え、このステレオタイプを、作ろうとするとそれはまた大変で。

むかし、友人E子がスタイリストだったとき、ハンバーガーショップのポスター用に「ピーマンらしいピーマン」を探して農家に行き、「ピーマンらしいピーマン」ひとつを撮影するために何百個ものピーマンを買い付けて「ピーマンらしいピーマン」を探したとか。

その話を聞いて以来、ポスターとかできれいなトマトなどを見るとき、いい仕事してるなあ、とか、これだったのかなあ?とか、勝手に楽しませてもらっている。

あれ?ステレオタイプがなんだか魅力的なモノに思えてきた。
少し考える必要がありそう。

くだりのぼり

火曜日, 6月 5th, 2012

しばらくほっといたらすっかりスパム箱となっていた我がブログ。

公私ともになんだかほろりと涙がこぼれそうになるほど忙しく、なんか忙しいことでこんなに気持ちが落ちることってあるんだな—、なんて、開いた窓が閉まっていくような、危険な方向に行きそうになった今日の夕暮れ。

五年前に植えたきり一度も咲いたことがないボイセンベリーの新芽に何かくっついています。
どこかからゴミが飛んできて引っかかったのだろうとよく見ると。

ひゃはー!!!咲いている!!!
初めて見る実物のボイセンベリーの花。
写真に撮ったら結構鮮やかですが、実物はもっと地味です。

でも!

なんだ、いいこともあるじゃないか。
そりゃそうだよね。そりゃそうだ。
良かった、良かった。まだ大丈夫。